マスタリングエンジニアの役割

以下、Sound On Sound誌作成のYouTubeビデオ “What do mastering engineers actually do?”の意訳です。

マスタリングエンジニアの役割を理解するには、録音史を振り返るのが手っ取り早いでしょう。

かつて「録音媒体」と「流通媒体」はまったく異なりました。
アルバムを作るとき、演奏は2インチテープに録音され、ミックスダウンされた楽曲はハーフインチもしくは1/4インチテープに録音されました。また、最終的に流通するのはヴァイナル、カセットテープ、CD、8Trカートリッジなどでした。
この時代、マスタリングエンジニアの主業務は、この「録音媒体」から「流通媒体」への変換を行うことでした。

この変換作業を行うのは専門職のエンジニアであり、専門的な知識と専用のツールを必要としました。

レコードをカッティングするとき、マスターの品質は作品がどれだけよく聴こえるかに大きく影響します。
よいマスタリングによりヒットが生まれたことはなかったかもしれませんが、逆に悪いマスタリングによりヒットしたはずの作品が埋もれたことはあるでしょう。さらに、極端に酷いマスタリングであれば、その盤は物理的に聴くことができなくなることさえあります。

マスターテープからヴァイナルへの変換を行う際、マスタリングエンジニアはいくつかの処理を行います。
たとえば低音やシビランスが強すぎたり、左右チャンネルの位相が大きく異なる音源をそのままカッティングすると、再生中に針が飛ぶ盤ができあがってしまいます。
これを回避するため、マスタリングエンジニアは、コンプ、EQ、ディエッサ、リミッタなどを使用しました。

この頃のマスタリングエンジニアの仕事は必ずしも音をよりよくすることではなく、変換時の変化を最小にとどめることでした。
もしヴァイナルの品質がマスターテープの半分ほどでも維持できていれば、アーティストやクライアントは大喜びしたことでしょう。

さて、21世紀まで時計の針を進めましょう。
現在、録音やミックスは、すべてコンピュータ上のデジタルファイルに行われるようになりました。
聴かれる音楽も、流通するのも、同様にコンピュータ上のデジタルファイルです。

このデジタルデータの取り扱いは誰でも行える…というほど簡単ではありませんが、ある程度の良識さえあれば個人でも可能ではありますし、一見すると録音媒体から流通媒体への変換程度に、高額な専門職の協力を仰ぐ必要があるようには思えないかもしれません。

しかし現にマスタリングエンジニア職は健在ですし、高い報酬を得ている方もいらっしゃいます。
その理由はなぜで、彼らは具体的になにを行っているのでしょうか?

現代におけるマスタリングエンジニアの役割は、主に3つあります。

まず第1に、作品がリリースできる状態にあるかどうかを評価するという昔ながらの役割は、完全に不要になったわけではありません。たしかに以前のように、再生機の針が飛ぶ可能性を気に留める必要はなくなったかもしれません。しかし、作品が流通媒体に最適化されているかどうかは変わらず重要です。現代において、その「流通媒体」はストリーミングを指すでしょう。
よいマスタリングエンジニアは、SpotifyやYouTubeといったサービス上で、私たちの作品が最大限よく聴こえるようにするにはなにをすべきかを熟知しています。また、インターサンプルピークなど、これらのサービス上で歪みの原因となりうるポイントを洗い出してくれます。この作業に必要な知識は広く共有されていますし、自分で行うことも可能ではあるかもしれません。それでも、ときには専門家の正確な作業を依頼することの方が合理的なケースもあるでしょう。

マスタリングエンジニアの第2の仕事は、ミックスが再生環境を選ばず聴けるかたちにあるようにすることです。これをご覧になっている方の多くはホームスタジオで制作を行っており、ルームチューニングが万全ではなかったり、あるいはヘッドホンで作業されているケースもあるでしょう。そのような環境下で組まれたバランスが、ほかの再生環境下においてもよく聴こえるとは限りません。
よいマスタリングエンジニアは、再生環境によっては問題になりうるポイントを特定し、また修正してくれます。
たとえば自宅の小口径スピーカでは気づけなかった過度の低音や、見落としていたノイズなどがあるかもしれません。

最後に第3の役割として、楽曲のコレクションをつないだときに、一貫性のあるサウンドにすることです。
完成した複数の楽曲が、それぞれを単体で聴いたときには良いバランスであっても、アルバムとして順にきいたときに散らかった印象を受けた経験はないでしょうか? また、これを直そうと、一方の楽曲の帯域バランスを修正してもまとまらず、他方を修正してもまだ繋がらず、行ったり来たりを繰り返したような経験が…
こういった作業もマスタリングエンジニアにとってはお手の物です。

このように、マスタリングエンジニアは楽曲にとってのセーフティネットのような存在であるといえます。
楽曲はリファレンス級のシステムで確認され、問題があれば修正が加えられ、流通媒体に合わせて準備が整った状態になります。
予算が許すのであれば、こういった作業を専門家に依頼するといいでしょう。

あいにく予算がないという場合、現在は自宅マスタリングのためのツールも豊富に用意されています。
膨大な数のエフェクトを内蔵したプラグインもありますし、AIベースのオンラインマスタリングサービスもあります。
しかしこれらは、本当にマスタリングエンジニアの代わりになるのでしょうか?

個人的には、答えはシンプルに”No”であると考えます。
その理由を説明するために、まずはマスタリングエンジニアがなにを「しない」かを考えてみましょう。
私の経験では、マスタリングエンジニアがステレオイメージを広げる処理をしたり、テープシミュレータやマイクモデリングツールやサチュレーションプラグインを使うことはありません。また、マルチバンド処理は滅多に行いません。リバーブやディレイを使うこともありません。EQやコンプを使わない場合さえありますし、使ったとしても部分部分で0.5dB程度の増減しかしないでしょう。

20年ほど前にホームマスタリング用の製品が登場したとき、これらが内蔵したツールは実際にマスタリングエンジニアが現場で使うものに似ていました。シンプルながら、微細な操作が可能なEQやコンプレッサがその代表例でしょう。やがてメーカ間の競争が加熱すると、コンプレッサのバンド数が競われるようになりました。オンラインフォーラムでユーザが「なかなか某作品のようにステレオイメージが広がらない」と書き込もうものなら、これを広げるモジュールも搭載しようと考えるメーカも現れたことでしょう。
すると私たち消費者は、47種類のエフェクトを搭載したA社の製品の方が、37種類を含むB社の製品よりも良いに違いないと考えるようになります。こうして、本職のマスタリングエンジニアが決してしようしないツールをゴマンと含む「マスタリングスイート」を私たちは手にするようになったのです。その中に含まれるプリセットは、これまた人間のマスタリングエンジニアが決してやらないほどに大きく音を変化させるものもあります。

このような製品は「音楽」を聴き、問題を特定し、修正するわけではありません。代わりにステレオイメージを広げたり、コンプをかけたり、パラレル処理を加えたり、その時代にファッショナブルとされる処理を施すことでしょう。これは前述の「セーフティネット」的な役割とは大きく異なります。

では、こういったツールは無価値なのでしょうか?
もちろん、そのようなことはありません。
こういったツールは、クリエイティブな工程としてミックスのサウンドを大きく変える無数の手段を提供します。
ですので、積極的に作品に使えばいいとは思いますが、個人的にはこれはミックス作業の延長であり、マスタリングとは別のものであると考えます。なぜならこれらのツールは、人間のマスタリングエンジニアのように「何もしない」ということはしてくれません。

もしミックスが十分によければ、人間のマスタリングエンジニアは、なにも処理を加えません。
こういった判断をしてくれるプリセットを提供するマスタリングプラグインは存在しません。

~完~


※以下、訳者注

かなり大雑把で、読者によってご自身の経験に照らしてもピンとこない箇所や賛同しかねる点もあるかもしれませんが、私自身はポイントを押さえたよいまとめだと思います。直接参考にせずとも、現代にも通用する責任分界点の引き方のひとつと認識することで、よりよいミックスのアプローチを見つけるきっかけになるかもしれません。

本ビデオがカバーしないマスタリングエンジニアの重要なもうひとつの役割として、技術だけでなく音楽を熟知した「初見のプロ」である点が挙げられます。ミキサーだけでなく、アーティスト、あるいはレーベルの担当者など、おそらく関係者の多くはミックスマスターが完成するまでに数日、数週間から、場合によっては数ヵ月、楽曲と向き合っています。この状態では帯域バランスやダイナミクスについての客観的な評価が難しいこともあるでしょう。マスタリングエンジニアはリリース前に品質を担保する最後の砦となる技術職であると同時に、真っ白に近い新鮮な気持ちで楽曲と向き合い、初見で「あれっ?」と思う箇所があれば注意喚起できる立場にあります。

もうひとつ加えるとすれば、ここで述べられた基本から離れてどこまでの作業を行うかも、エンジニアによって大きく異なる印象を受けます。スキルセットや得手不得手以外にも、どこまでを自身の役割と認識しているかという点は、クライアントとエンジニアの相性を決める大きな要素のひとつでしょう。

一例として「ステムマスタリング」に対する個々人の考え方の違いが好例かと思います。これはセクションごとのサブミックスを元にマスタリング作業をすることで、ある程度のバランス変更をマスタリングの現場でも可能にするワークフローですが、世界的に活躍されているマスタリングエンジニアの中でも、これを良しとする方もいれば、「それはバランシングエンジニア(ミキサー)が判断すべきこと」として毛嫌いする方もいらっしゃいます。※決して面倒がっているわけではないというニュアンスが伝われば幸いです

この辺りの価値観にみられるグラデーションをよりよくご覧になりたい方には、当ブログでも過去にご紹介こちらの書籍をお勧め致します。

Scroll to top