書籍レビュー:「Audio Mastering: The Artists」

本エントリは、2018年秋にFocal Press社より発行された「Audio Mastering: The Artists」の書評です。


本の概要

マスタリングとはなにか? 
またマスタリング・エンジニアの役割とはなにか?

ありがちな説明としては、

  • 楽曲が、再生環境を問わず最大限リスナーに届くことを保証する
  • アルバムなどにおいて、通して聴かれる複数の楽曲に統一感を与える

といった説明を目にすることが多いかと思います。

今日、おおよそすべての音楽タイトルは「マスタリング」という工程を経ます。このマスタリングに関する入門書は数あれど、プロの現場で用いられるアプローチの多様性に言及するものはほぼ皆無ですし、マスタリング・スタジオのユーザとして依頼する側やリスナーにとっては、まだまだブラックボックス(あるいはときに黒魔術)に近いイメージがいまだ根強い側面もあります。

ならば、直接トップランナーのエンジニア達に訊いて回ろうではないかと、自身がマスタリングエンジニアでもある著者2人が尋ねて回ったインタビュー集が、この「Audio Mastering: The Artists」です。この本はまた、普段は存在すらあまり認識されない「アーティストとしてのマスタリング・エンジニア」に光を当てたドキュメンタリーでもあります。

インタビュー形式は独特で、あらかじめ尋ねたい質問の大枠は準備されますが、事前に決めたテーマに縛られることなく話の流れに身を任せるかたちになっています。これにより、あるテーマに対しての個々の見解の違いを浮き彫りにするとともに、インタビュー対象のエンジニアがそれぞれ重きを置いている領域もまた、自然に顕在化するようになっています。

あらかじめフレームワークとして準備された質問は次のとおりです。

  1. どのようにしてマスタリング・エンジニアになったのですか?
  2. どのようにマスタリングを学びましたか?師についたのですか?
  3. マスタリングとはなんですか?
  4. 職業としてのマスタリング・エンジニアについてどう思うか?音楽制作に関連する他の業務とどのように違うか?
  5. マスタリング中にはどのような点に耳を傾けるか?ジャンルを問わず注意する点はどこか?
  6. よく使用するシグナル・チェーンはあるか?入力から出力まで順に説明してもらえるか?
  7. 秘密兵器のような機材はあるか?
  8. 頻繁に行うEQ処理はあるか?
  9. マスタリングにおいて、ノイズ除去やその他の編集はどの程度重要と考えるか?
  10. ステレオ音像にはどのぐらい気を遣うか?M/S処理やWidener(ステレオを広げる処理)はどの程度行うか?
  11. コンプレッサー以外に、体感音量を稼ぐために用いる手段は?
  12. いわゆる「ラウドネス・ウォー」は終わっていると思うか?終わっているなら誰が勝者か?
  13. 媒体ごとに異なるマスタリングを行うか?
  14. リマスタリングの経験はあるか?もしあるなら、新譜のマスタリングと異なる点は?
  15. 業務に携わり始めた頃と現在では、マスタリングはどのように変わったか?
  16. 将来、マスタリング業務の在り方はどうなっているか?
  17. 自身がマスタリングを始めた頃にタイム・トラベルできるとすれば、過去の自分自身にどのような助言をするか?

ただし、前述のようにインタビューは即興的に進められますので、上記のすべてが形式的に尋ねられるわけではなく、あくまでおおまかな進行用のガイドとして使用されます。

本の構成は大きく2部に分かれ、前半は北米、後半は欧州を中心に活躍するエンジニアのインタビューが収録されています。


寸評

本書を読み進めると、そもそもマスタリング・エンジニアの業務として行っている作業自体が、個々の視点や立場、またそこに至った経緯によって少しずつ異なることがわかります。
それにも関わらず、どのような姿勢でサウンドを聴くべきか、求められる素養や作業環境がミキシング・エンジニアとはどのように異なるか、わざわざミキシング・エンジニアとは異なる専門職として存在する理由、等々についてもかなり掘り下げられる場面が多く、これらの点においては各人の見解はおおよそ共通していることがわかります。
この点においては、日頃からマスタリング専用の環境でAAAタイトルを扱っているエンジニアでもなければ、数多くの知見が得られるものと思われます。

(余談ですが、一般に誤解されているようにミックスをラウドにしたり、マキシマイザやリミッタでレベルを持ち上げることがマスタリングではない―むしろそれは害悪でしかない―ということで、少なくとも関連する話題に言及した全員で意見が一致しています。)

一方、具体的な道具の使い方に関する話は皆無でないにしろ非常に少なく思われました。これは決してインタビュイーが企業秘密を守っているわけではなく、耳を鍛えることやモニタ環境を構築することの重要性に比べれば、使う機材や使い方などは二の次であり、本質的に重要ではないことを知っているからでしょう。(実際にそのように明言するインタビュイーも何人かいらっしゃいました)

先の問の一覧に「将来、マスタリング業務の在り方はどうなっているか?」とあるよう、本書ではマスタリングの過去、現在だけでなく、この専門職が軽んじられるようになってしまった背景、また将来の在り方について述べられる部分もかなりあります。ややネタバレになってしまいますが、残念なことにインタビュイーの多くが予見する未来は、音楽文化全体にとっても決して楽観的なものではありません。

制作ツールが民主化された今日において、この流れが不可避であるとするのは簡単です。しかし、これまで数々の名盤が制作された舞台裏でマスタリング・エンジニアが果たしてきた役割を本書を通して俯瞰した読了後、多少なりとも録音文化に対する愛情を抱いた読者であれば、シニカルに切り捨てることはできないことでしょう。

けっきょくマスタリングとはなんぞや?

その答えを見つけるには、本書が提示する無数の点のような情報を読者自身が繋ぎ合わせ、全体像を構築するしかありません。ぼんやりとした答えは見出せるでしょうが、いざ他者に説明するとなると、結局は本ブログ・エントリの冒頭に示した一般的な定義以上の言葉は出てこないかもしれません。ただし多くの方は、読了後にそのニュアンスの意味するところの奥深さを知ることになります。

最後に、音楽制作者にとって”Audio Mastering: The Artists”は諸刃の剣になりうることだけ書き添えておきます。 カンフー映画を見たあとにはなんとなく自分が強くなった気分で劇場を後にするように、この本を読み終えた後は、きっと誰しもちょっとしたEPかアルバムのマスタリングに改めてチャレンジしてみたくなるでしょう。同時に、安易にマスタリング・エンジニアを名乗ったりミキシング・エンジニアと兼業している看板を掲げていらっしゃる方は、読了前よりもハードルが上がったように感じるかもしれません。

2019年の初月も折返し点に差し掛かりましたが、2018年に筆者が手にした音楽制作の関連書籍の中ではダントツ・トップの一作として、皆様に本書を強くお勧め致します。


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“Audio Mastering: The Artists”(ハードカバー/ペーパーバック/Kindle版)

同じFocal Pressによる、マスタリングのバイブル
“Mastering Audio – the art and the science (3rd Edition)” by Bob Katz

同じFocal Pressによる、ミキシングのバイブル
“Mixing Secrets for the Small Studio” by Mike Senior

同じFocal Pressによる、録音に関する怪書
“Recording Secrets for the Small Studio” by Mike Senior

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