書籍レビュー「Audio Mastering: Essential Practices」

以下は、第一線で活躍中のマスタリング・エンジニア Jonathan Wyner氏によるマスタリングの本「Audio Mastering: Essential Practices」の紹介とレビューです。

書籍の概要

著者Jonathan Wyner氏は、在学中にフレンチホルンと作曲を専攻し、その後自身の作品を録音する必要性からレコーディングを開始。そのままレコーディング・エンジニアとしてキャリアを開始し、後にマスタリング・エンジニアに転向しました。

マスタリングを手掛けたアーティストは、Jamese Taylor, David Bowie, Aerosmith, Nirvana, Frank Zappaなどなど…実にCD 5,000枚以上に上ります。

現在はマスタリング・スタジオM-Worksのチーフ兼代表である他、バークレー音楽大学で教鞭を執りながら、近年はiZotope社のエジュケーショナル・ディレクターとして同社製品の開発にも携わっています。

このようにJonathan氏は華々しいポートフォリオを持つだけでなく、音楽制作に関する教育にも大変に力を入れています。

本書は、そんな氏がマスタリングについて惜しみなく網羅的に解説する入門書であり、一部ではマスタリングのバイブルとも評されています。

目次の大見出しから、主なものをご紹介致します。

・マスタリングとはなにか?
そもそもマスタリングの目的とはなにか?
LP時代にまで遡るマスタリング史概略のほか、 PQコードなどを打って完成させたプリマスターが、CDプラントでどのように取り扱われるかなどが紹介されます。

・マスタリング・スタジオのツアー
著者がチーフ兼代表を務めるマスタリングスタジオ “M-Works” を案内します。機材のリストなどはありませんが、物件を選定し、建造時にこだわった点、またワークフロー効率化のためにどのような部屋に、どのような設備を配置しているか、ミキシングに向けたスタジオとマスタリングに特化するスタジオの違いなどが詳細に説明されています。

・マスタリングの手順
マスタリングの受注から納品までの一般的な流れや工程ごとにおける確認事項などについて

・ファイル形式について
マスタリングを行う上で、知っておくべきファイル形式や、それぞれの違いなどについて

・レベル管理について
波形の読み方、レベル表記に使用する単位の基礎などについて

・コンプレッサやEQの使い方
それぞれの機器の動作原理や、どのような場面に使用するかについて

・具体的なマスタリングの事例
マスタリングの開始から終了までを、各ステップの音声付きで紹介します。また作業の工程だけでなく、ひとつひとつの手順や判断を下す思考過程についても、かなり細かい記述があります。11章では単一楽曲のマスタリングを、また12章では複数曲をマスタリングする前提で、アルバムの規準となる曲をどのように選ぶか、また各トラックに連続性をもたせるために意識する点なども紹介されています。

その他、後述する裏話など、多種多様な話題が取り上げられています。

寸評

前述の章タイトルだけを見るとなにやらプロの現場向けで、近年急増している個人規模のスタジオには適用できない話が多いようにに思われるかもしれませんが、そうでもありません。より小規模の環境で作業をしなければならない場合の注意点に関する項目もあり、プロ志向の方から、スキルアップをしたいアマチュアまで、何かしら得られるものはあるかと思います。また、これまでに当ブログで紹介した他のマスタリング関連本とは、トピックが似ているようでありながらわずかにカバー範囲が異なる印象を受けました。

個人的に興味深かったものとしては、

  • テープをはじめとする、ビンテージ系アナログ機器やそのエミュレーションを使うべき場面とそうでない場面
  • モニタレベルについて
  • CD登場時のA/Dコンバータの質が劣ったことが、アナログ信仰を助長したという自論
  • David Bowieのリマスタリングにまつわる裏話

技術指南から、長年現場に携わってきた著者ならではの視点まで、幅広い話題を含みます。

などなど…

なんとなくタイトルが似ていることから、同じく「マスタリングのバイブル」と評されるBob Katz氏の著書「Mastering Audio: The Art and the Science」との差が気になる方もいらっしゃるかと思います。そちらに比べると、ゴリゴリにディープでマニアックな話の割合は少ないかもしれませんが、マスタリングの技術を向上させたい初心者にとっては、Wyner氏の本が最初に手に取る一冊としては読みやすいかもしれません。
また、聴き専ながら、マスタリングエンジニアへのインタビューを集めた本 “Audio Mastering: The Artist” (過去のレビュー記事)を楽しまれた方は、そちらでも取り上げられたJonathan氏のワークフローをより深く見学する資料としても読み物として十分にお楽しみいただける内容になっていると思います。

マスタリング・エンジニアと一口に括れど、そのアプローチや重きを置いている点は人それぞれであり、その「型の無さ」ときたら、ミキシング・エンジニアの比ではないという説を聞いたことがあります。
その中にあってJoanatan氏のマスタリングに対するスタンスは、反ラウドネスウォー界隈の第一人者であるBob Katz氏やIan Shephard氏ほど露骨ではないにせよ、どちらかというとそちらに近く、わりとオールドスクールな視点でマスタリングを論じている印象を受けます。そんなJonathan氏が重要と語るポイントの数々が、今日現在もラウド一辺倒な感があるJ-popや周辺のシーンに軸足を据える読者の目にはどのように映るか、興味深いところではあります。

機材の使い方に関するセクションは、どちらかというと大雑把に「このような目的で使え」という話が中心で、具体的なモデル名や数値などは、ほぼ皆無です。
特定の処理が必要かどうかを判断する耳を養う作業は読者側に委ねられますが、マスタリング(あるいはミックスにおいても)テンプレ可できる工程などほとんどないことをを思えば、これはある意味正解ともいえるかもしれません。

代わりに書籍終盤、音声サンプル付きでマスタリングを実践するセクションでは、行われたEQ/Comp処理(たいてい0.5dB単位)がひとつずつ段階を追いながら詳説され、マスタリングがいかに細かな調整の積み重ねで進められるかをうかがい知るには十分な内容となっています。また、音声こそ付属しませんが「試してはみたものの適さないのでNGにした処理」についても解説されているのが興味深かったです。

個人的には、この付属オーディオ・サンプルが大変役に立ちました。いまどきはPureMixMix With The Masters といった教則ビデオの定額見放題サイトもありますので、いまさら書籍+音源は回りくどく感じられるかもしれませんが、さすがにバークリーで教壇に立つ著者だけあって、編集ポイント…というよりは「何に注目しているか」の説明が詳細かつわかりやすく感じました。

近年、マスタリングエンジニア間から「ミックス段階でダイナミクスが失われ過ぎて、マスタリングでできることの制約が多すぎる」という声をよく聞きます。また、Ian Shephard氏のポッドキャストでは、加えて「ミックス段階でのモデリング系プラグイン濫用によるサチュレーションが多く、これを低減したミックスの再提出を依頼するか、それが不可の場合は過度なサチュレーションを解除するところから作業を始めることが多い」という話もありました。
このような失敗をわずかにでも未然に防げるよう、Wyner氏がどこにEQやダイナミクスの過不足を感じるか、一連のプロセスを追体験することで、マスタリングを外注する際にも指針とすべきダイナミクスの加減や、帯域の詰まり具合(暑苦しさ)を感じられたのは貴重に思われました。

その点において、本書に付属するようなオーディオサンプルへの皮肉(?)としてありがちな「マスタリング前の素材がそもそも現実離れして良すぎるため、参考にならない」ということは該当せず、ミックスを専門にされる方にとっても参考になる点はあるかと思います。

さて、本書について賛辞ばかりを書き連ねましたが、強いて難を挙げるなら、テクニカルな面ほど、ひとつひとつの解説はあっさりしているように感じた点があります。具体例として、2019年3月に行われたiZotopeセミナーで著者が取り上げ、また複数の参加者が「参考になった」と話し合っていたようなトピックでさえ、本書ではわずか数行で片づけられていたりします。
おそらく本章が表面をかするに留める話題ほど他所でも情報は得やすく、さほど問題にはならないのでしょうが、本書を最初の資料として手に取られるエンジニア志望の読者は、これを唯一の教科書とせず、少しでも疑問に感じた点はさらに別の文献を当たる覚悟が必要になるかもしれません。

また、2013年発行の本書は、今となってはやや古い部分も散見されます。
特に、今日現在マスタリングを行う際には避けて通れないラウドネス・ノーマライゼーションに関する記述は皆無です。トゥルー・ピークがオーバーロードすることを回避するために狙うべきデジタル・ピーク値についても、やや古いスタンスが提示されていたりします。

一方で、まさに記述がやや古いこともあってか、のちにiZotope製品のアイディアに繋がったようにも読める記述があったりもしますので、近年の氏の活動を追っている方には別の角度から楽しめる場面もあるかもしれません。

すでに知識をある程度有した読者が、マスタリングに関して世に溢れる珠玉混じった情報の中から、一線級のマスタリングエンジニアが真に重視しているポイントを知る上では本書は大変有用かと思います。はじめてマスタリングに触れる読者は、トピックごとに割かれているページ数でその重要性を推し測ろうとしたりせず、自主的に深く掘り下げる起点として大いにご活用いただくといいでしょう。

まとめ

長所

  • 網羅的で、厚さからは想像できないほど充実しています。読み物としても、あらゆるレベルの方にお楽しみいただけるかと思います。

短所

  • クニカルな部分は、ややスパルタ的
  • Kindel版は、サンプル音源がKindle for PCでは再生できない

全体的に有用な本ではありますが、すべて英文であるため、正直なところハードルが高い感は否めません。
ただ、これまでにご紹介した他の本とは異なりオーディオサンプルが付属しますので、一線級のエンジニアによるマスタリング前後の音源と、Wyner氏がどこに注目しているかレクチャーを受けられるなら3,000円は安い!と感じられたのであれば、11,12章のためだけでも購入される価値はあるかと思います。また、前述の理由により同章は、普段はミックスしかされない(マスタリングは外注)という方にもお勧めできます。

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Audio Mastering: Essential Practices

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