今回は網羅的な製品レビューとは異なり、タイトルどおりの内容です。
特にステレオ・ミックスにおいては、複数のトラックが単一の周波数帯を巡って争うことは望ましくなく、多くの場合、音が濁る原因となります。
これを回避するためのEQ処理を補助するツールとして、当ブログではこれまでにiZotope NeutronやFabFilter Pro-Q3を紹介してきました。
これらの製品は、トラック間で競合する帯域をGUIで示す機能を有していますが、最終的にどちらのトラックを削り、どちらを残すかの判断はユーザに委ねられることになります。
しばらく前に、この帯域間の競合を自動的に解消するツールとしてWavesfactory TrackSpacerが登場しました。
これはプラグインのサイド・チェイン機能を用いて、主となるトラックが干渉を受けないよう、もう一方のトラックと重複する帯域だけレベルを下げる作業を自動化するものです(詳細は後述)。
コンセプトはシンプルかつ明瞭で、「どうして今まで誰も作らなかったの?」と思ったものです。しかし実際に触れてみると、少なくともカラオケとボーカル間の干渉を軽減する上で、TrackSpacerでは筆者自身が期待していたほど自然な効果は得られませんでした。
本エントリでは、TrackSpacerが期待に至らないと感じた点、また本題であるSonible smart:compがその代替…というか本命として使えるか?について書いてみたいと思います。
その前にまず、そもそも「サイド・チェイン」とは何かについて簡単に説明します。
サイドチェインとは
コンプレッサをはじめ、ダイナミクス処理を行うエフェクタには、必ず信号のレベルを検出する回路、あるいはアルゴリズムが実装されています。(さもなければ、信号の入力レベルに応じてリダクションを行うことはできません。)
大抵の場合、この検出回路には入力信号と同じものが送られます。
一般にサイド・チェイン処理とは、この検出回路に送る信号として、入力信号以外を用いる手法を指します。
コンプレッサにおけるサイド・チェイン処理の活用法としておそらく最も歴史があるのは、サイド・チェインの信号「のみ」にEQをかけるものでしょう。サイド・チェイン信号の高域成分を持ち上げると、汎用のEQとコンプレッサを組み合わせてディエッサーを作ることも可能です。
コンプレッサの中でも、特にバス処理に耐える品質のモダンな製品は、多くの場合サイド・チェイン・フィルタ…具体的にはハイパス・フィルタが搭載されています。
これはコンプレッサが低域に反応して予期せぬ動作をしないよう、サイド・チェイン信号の低域をカットするものです。むしろ、この機能を備えない製品は、数十年前に比べて楽曲の低域が増えた現代において、マスターコンプには向かないとする考えもあります。
この場合、ユーザがサイド・チェイン用に信号を別途用意するわけではありませんが、EQ/フィルタが機器に内蔵されているか、あるいは外部のものを使用するかといった違いがあるだけで、れっきとしてサイド・チェイン処理になります。
次に、サイド・チェイン回路にまったく異なる信号を送る用途を考えてみます。
コンプレッサをうまく活用すれば、主となる信号が鳴っているときだけ副となる信号を下げ、それぞれが前景で争うことを自動的に回避できます。
上記はサウンドメイク寄りの手法としてエフェクティブに使うこともできますし、純粋にミキシングの観点から、さもなくば微細なフェーダ・オートメーションを要したであろうバランシングを自動化する際にも使えます。
いつしか「サイド・チェイン」は、拍頭でキック以外に強いゲイン・リダクションがかかる「ダッキング」効果そのものの代名詞となってしまった感がありますが、ご覧のように、これはサイド・チェインの数ある用途のひとつにすぎません。
余談ですが、キックとベースの帯域が十分に分離されていれば、キックを踏んだ瞬間だけ、ベースをむしろ一瞬強めることで厚みが増すような効果も、サイド・チェインで実現することができます。
TrackSpacerにおける、干渉回避の自動化
TrackSpacerに話を戻します。
これは簡単に言うと、トラック間の重なる帯域を解消することを目的に、異なる信号2つを入力することを前提とした、マルチバンド・コンプレッサです。
ざっとした仕組みは下図のとおりです。
TrackSpacerがはじめにリリースされたとき、これが作編曲家や、いわゆる「歌ってみた」文化を楽しまれている方々にとって福音になるのではないかと考えました。
各トラックからミックスを組み上げるのではなく、すでにカラオケが2mixに落とし込まれているケースでは、オケがボーカルと干渉しないためのEQワークもよりシビアになります。
また、ボーカルはダイナミック・レンジや帯域ごとのレベル差が大きく、取扱いが面倒です。打ち込み主体のオケに混ぜる場合、たとえば同じく生演奏を収録したエレキ・ギターなどに比べても、良好なバランスを得る作業は手間を要します。特に、信頼できるモニタ環境にアクセスできない場合は困難な作業でしょうし、デモに仮歌を載せたいだけの作編曲者にとっては苦痛ですらあるかもしれません。
そういった方々にとってTrackSpacerは、素早く、かつ必要以上にオケを損なうことなく明瞭さを得られる、大変有効なツールとなるはず…でした。
実際に使用してみると効果は限定的で、適度にボーカルが浮く程度にまで掛かり具合を強めると、オケに空洞が生じたような音になってしまいました。
Q幅の設計なのか、32バンドという粒度が粗すぎたのかはわかりませんが、少なくとも想定したような用途においては、オケのバランスを維持したまま、期待していた効果を得ることはできませんでした。
smart:compはどうか
さて、いよいよ先日リリースされたSonible smart:compに移ります。
同製品の機能一覧を見ておりますと、コンプの設定をAIにより自動化できることや、2,000(!)にもおよぶバンド数によりスムーズなマスターを得られるといった華々しい記述が踊ります。
その中でも、わずか半年ほど前にTrackSpacerに期待を寄せ、そして残念な想いをした筆者としては、次の記述が最も気になるところでした。
“サイドチェイン・モードにおける帯域別ダッキングは、帯域が競合する複数の信号をまとめ上げます。”
理屈の上でも、メーカが謳う用途においても、まさにTrackSpacerと同様です。
smart:compは、AI機能を抜きにしたコンプレッサとしてもそれなりに高評価を目にしましたので、否が応でも期待が膨らみます。
実際にカラオケとボーカルに使用してみた
結論については、あまり多くは申しません。
前回、ブログエントリを書くに至らなかったTrackSpacerとは違い、このように文章を起こしているわけですので、前向きな評価であることは自明かと思います。少なくとも筆者自身は、TrackSpacerと比べてオケ側の空洞化も少なく、実用レベルに達していると感じました。
ピンクノイズをソースに、サイド・チェイン信号に女性ボーカルを使い、両製品におけるゲインリダクションの挙動を見比べてみます。
ご覧のように、TrackSpacerと比べるとsmart:compの方がQが狭く、カットオフも急であることがわかります。特に持続音では、オケに対して最小限の帯域がカットされていることがわかります。TrackSpacerがよりなだらかなカーブで処理をしているのに対し、smart:compの方はピンポイントでダイナミックEQなどを設定したときの感覚に近いといえるかもしれません。
最後に
今回はカラオケ・ミックスのアシスト&時短ツールとしての評価のみを行いました。リダクションの対象となる素材が2MIXではなく、なだらかなカーブで十分の場合、TrackSpacerでも使いではあるかもしれません。こちらはサイドチェイン信号のフィルタも内蔵しているため、中にはTrackSpacerでしか対応できないようなシチュエーションもあるかもしれません。(ただし、正直なところTrackSpacerの方が適した場面であると判別するだけの技量があれば、手動で信号チェーンを組む方が確実なようにも思われます…)
正直なところ、筆者自身としてはよほど時間に追われていなければ、カラオケのミックスの用途においてはいずれのツールも使用せず、オートメーションやダイナミックEQを手動で設定する方を選ぶかと思います。
しかし、前述のようにカジュアルにカラオケ・ミックスを楽しみたい方々のアシストや、限られた時間でデモ音源に仮歌を載せなければならないトラックメーカーの時短ツールとして、一度は同機能を試してみる価値はあるかと思います。
今回はsmart:compの特定の使い方にのみ注目してみましたが、AIを駆使したオートコンプとしても、悪くないように感じました。先日ミックスを終えたステレオ素材(J-Pop的な4ツ打)に薄っすらとかけてみたところ、特定の帯域を破綻させることなく全体の明瞭度を上げることができたように感じました。ただしLearnプロセスの直後に自動的にゲインも上がってしまいましたので、評価時は必要に応じてレベル・マッチングを行う必要があるかもしれません。
その他、AI機能を中心とする有用な使い方については、おそらく今後複数のサイトが記事を掲載するものと思われますので、そちらに譲りたいと思います。